〔人外視点からの定義〕
「脱プラスチック」および「プラスチックフリー」は21世紀初頭、2010年代から先進国を自称する国家の人間の間に流行している環境保護(政治的宗教的)思想である。
この思想的潮流の理想が完遂されれば人間以外の生物にとっても利益となる。しかし過程においては人間社会に対立を生み出す。その結果勃発した戦争によって人外側に実害を及ぼす可能性もある。
〔脱プラスチック思考が抱える問題点(21世紀初頭・日本)〕
「日常生活の中からプラスチック素材を用いた製品をできる限り排除していく」
現代の日本で暮らす人間達の「便利で快適な生活」を支えているのは無数のプラスチック製品である。冷蔵庫・洗濯機・テレビ・エアコン・掃除機・パソコン…材質としてプラスチックを含まない製品は一つもない。日常生活の中からプラスチックを排除するということは、先進国では当たり前の「便利で快適な生活」の放棄である。
都市生活を放棄した「脱プラスチック」思考の人間達は農村部へと向かう。そこで理想的「自給自足」「丁寧な暮らし」「無農薬有機栽培」などに挑もうとするが、先住民との意見の相違と過酷な現実に直面することになる。
21世紀初頭の日本において農業の現場からプラスチック製品を排除した場合、収入を生み従事者の先進国的生活を支える産業としては成立しなくなる。
一例として、稲作に用いられる苗は温度が保たれたビニールハウスの中でプラスチック製の苗床で効率よく育苗されたものだ。そして無数のプラスチックパーツで作られた乗用田植え機で田圃に植えられる。乗用田植え機が登場する前には大勢の人間が大変な労力をかけて数日がかりでやっていた田植え。それが少ない人数でものの数時間で完了するようになった。
市場に出回る野菜や果物の収穫や出荷の際も、軽量で丈夫なプラスチック製のコンテナの存在は欠かせないし、水やりや農薬散布に用いられる道具はほぼプラスチック製である。
プラスチック製品を一切使わないということは、農業従事者の過酷な労働時間は増すが生産量は低下するという現実を受け入れるということだ。長らくその土地で農業を営んできた原住民(ほぼ老人)に頭ごなしに「脱プラスチック」を説いたところで共感されるとは思えない。彼らは言うだろう「なんで今更、昔のような長時間重労働の農業を強要されなきゃならないんだ?」と。
こうした人間同士の軋轢を解決しなければ真の脱プラスチックは実現できないだろう。
「脱プラスチック」「プラスチックフリー」とは「原点回帰」である。
効率・利便性最優先でプラスチック製に置き換えられてしまった日常の道具を原初の形に戻し、かつて在った「生産・流通・廃棄」の循環を取り戻す行動である。
プラスチック製品は壊れてしまったら地上に延々と存在しつづける厄介なゴミとなってしまう。だが竹や木材は別の道具に作り替えて再利用が可能であるし、最終的には自然界で分解されて土に還り新たな命を育む糧となる。
人間が扱う日常の道具は「生産地=消費地=廃棄地」であることが好ましい。
交通の発達で人やモノの移動に制約が無くなり工業生産品の安価なプラスチック製品が流通するようになった結果として失われた道具がある。
竹や木をはじめ藁や萱、藤や木通の蔓などの素材で作られた籠や笊といった生活用品。
消費地近辺に材を得、その土地に住まう職人の手で作られた植物由来製品の価値をさらに高めていく必要がある。
この考察は随時更新されます。
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